昭和49年 日付不明 大和家霊祭

この度は皆さん、おかげを頂きました。不行き届きながら只今、秋山いわじろう(アキヤマイワジロウ)さん、いわゆる皆さんのお父さん、または、おじいさん、おばあさんにあたられる方の式年のお祭をさせて頂きました。人間が幸せになっていく過程の御霊様が幸せな御霊、安心な御霊、喜びの御霊、そしておかげを頂くのは、おんなじ理屈はおんなじです。
どんなにお金があっても物があっても、心の中に有難いものを感じきらないならば、それは不幸せであり、どのような中にあって喜びを感じとらせてもらえれる心の状態を頂いたら、それが幸せである。そういう心の状態に、いわばおかげがあると言われる。そういう心の状態に、いうなら人間の幸せの条件そのすべてが頂けれるように、御霊様とてもおんなしこと。
御霊様がいよいよ喜びの御霊としての条件を備えてくださるということは、結局遺族の者のいうなら真心、またはその奉仕による以外にはないのです。
それは御霊の中にも、生前、大変徳を積んで、御霊ながらのおかげを頂いておるという御霊もありますけれども、そういう御霊も実はもうごく稀です。いうなら世間に、まあ、とにかく、まあやっと一日を過ごしておると、ね。まあ生活は楽であってもいつも不平がある、不足があるというような人が、まあほとんどであるように、御霊の世界でもやっぱりそういう不平を不足を、または、あー、まあいうなら、ほんとに喜びとか安心とかという心というものを、んー、信心を頂いておっても頂ききれないでおる人たちがたくさんあるとおんなじに、そんなにざらにあるものじゃないです、ね。
けれども、お互いが日々こうして御取次ぎを頂いて、信心の稽古をさせて頂いて、その時点時点でおかげを頂き、その時点時点で自分の心の状態を有難いほうへ有難いほうへと向けていく、いわば稽古させて頂いておるのですから、例えば今日のような御祭りもいわばできるわけです。
神様にあたくしはこのことを、今日の御祭りをこうしてできられるようになり、はじめは大和(ヤマト)さん夫婦で一家でと言っておったのが、もう兄弟もぜんふ集まられることになったというので、もうほんとに、まあ、あたくしの喜びもですけど、御霊様が飛び上がるほど喜ばれたというような感じがするのですよ、うん、ね。
あたくしはあの、そのことを御神前にあのお届けさせてもらいよったら、もうなんていうんでしょうかね、男が着てもよかれば、女が着てもよい、という感じのそりゃもう見事な着物です。なんだろうか、お召だろうか、なんか支那あたりにある、あの緞子類ごと何か分からない、分からないけれども、そら見事なきれをですね、たくさんまあいうならば、2人分の着物を充分仕立てることができるというくらいな、その反物をずっとこう、それぞれに裁ち、その、着物を裁ちますね、裁っておるお知らせを頂いたんです。
はあ、おかげを頂いてるな、と私は思うたんですけど、ほんに、えー、いついつはおじいちゃんの式年祭、いついつはおばあちゃんのあれだと、まあ子どもだから忘れもしますまい、思いもしましょうけれどもね、その思うておるということは、例えばそこに素晴らしい着物が反物あるというだけです。それでは手を抜けませんよね。やはりその思いが裁たれて、縫われて初めて、なら御霊さんが袖を通すことのでけれるおかげ。しかもこの衣の徳というのは、お徳の中でも最高にいわれる。衣食住というてね、人間はこの衣食住の徳に恵まれたら、まずその人は幸せになる、ね、衣の徳、ね。
食べる、住まい、この3つの徳をその受けるために、まあ信心があるというてもよいけれども、とにかく自分が我力であれば作らんならん、我力で自分が食べちかんならん、これは徳じゃない。自分のただ我力でやっとかっとやってる証拠には、喜びも伴わなければね、ならほんとにその、まあなんていうんですか、ほんとにまあ、優雅な心なんかはとても頂かれません。
ところがそのお徳を受けますと、衣の徳なら衣の徳という徳を受けますと、それこそ天衣無縫という言葉がありますがね、今日はあたくしが反物が男物にもみえる、女物にもみえるということはね、衣食、この天衣無縫という言葉です。大変むつかしい言葉ですから、あたくしこの御理解を頂いたときに、天衣無縫とはどういうことだろうかと、朝の御理解に頂いたんですけれど。
んー、本当の意味を昔こんな厚い字引きを善道寺の久保山(クボヤマ)さんが、あの調べておられたら、天衣無縫というのが載っとった。どういうことかというとね、天衣無縫とは、天が与える衣ということ。天が与える徳ということ。ね、というものはね、例えばここにお父さんが残された衣の徳というものがもしあるとするならね、孫が着てもちょうどよか、主人、大人が着てもよし、女が着てもよいというように、きちっと合うように、柄合いでも合うように、ような、というのが天衣ということなんです。
無縫ということは縫い目がないというね。縫い目がないほどしの、ですから、小さい者が着ると小さくなる、大きい者が着ると、ね、派手好きな人が着ると派手に見え、ね、地味な物が好きな人には地味な、いわゆる神ながらなおかげが受けられるという、衣の徳ということはそういう大変な意味があるんです。
私は今日その御心眼に拝ませてもろうたその、えー、その反物というですかね、こう、(?7:11~)型にこう巻いてありますよね、よ、洋服なんかの生地なんか。あんなような、それでいてもなんとも、お召じゃろうか、あー、まあ緞子だろうか、支那あたりにもよくあるようなんです。とにかく素晴らしい生地です。しかも、ならそれが、これは男んでんよかたい、おなごんでんよかたいっちいう感じですよ、ね。
今日の例えばそういう素晴らしいものを持っておっても、なら今日の御祭りはね、このみなさんが真心でこの御祭りを奉仕されたということで、裁つことになった、これから縫われることになるであろう、これからはそれを袖を通して着られることができられるであろうという、あたくしは御祭りであったと思います。
御祭りというのは、そういう大変な意義があるんです。だから真心込めにゃおられない、いうならば、それを現わさなければおられないということになりますよね。今日は、今日のお父さんお母さんの御霊様、そういうおかげを受けられたという感じです。それも一つ、衣、食、住とこういわれておりますから。すべてが足らうようなおかげをね、まずは皆さんが頂かなければいけない。そしてそれが潤おうて、御霊にも送られるような、いわば働きになってこなければいけない。
私は、この前の御霊様の御祭りの時に、聞いて頂いたものを聞いてもらわにゃおられないという話がありますからね、聞いて下さい。もう我田引水に先生が話しよると思わずに聞いて下さい。この頃、ちょうど23日の御霊様の御祭りに、ちょうど御祭りが始まるという、ちょっと前にね、テレビを子どもがちょっと入れましたもん。そしたらちょうどお彼岸の事ですから、どこか大変偉いお寺のご住職と、それからあの人、岡本太郎(オカモトタロウ)さんかなんかっていう漫画家かなんかの評論家かなんかですね。が、二人でその、神の実在と、仏の実在ということの、あるかないかという討論会のような感じでしたですね。
ですから、おぼんさんはそれこそ何千巻という経文の中には素晴らしい真理が含まれておる、法則が含まれておる、御霊の世界なんかでも、それこそ詳らかに説いてあるのが、あのお経文です。だから、あのお経文を読むと、そういうことが分かるんです。なるほど世の中にはこういう一つの摂理といったようなものがあるんだということが分かるんですけれども、それをまあ説かれて、仏の実在、魂の実在を話されたようなところでした。
そして今度は、それに対してその岡本(オカモト)さんが、その事に対して反対の意見を述べておられるところでした。「神やら仏やらあるもんか」と。「私は家族の者にも言うておる。わしが死んでも葬式することもいらん、お墓も建てることもいらん。あるはずがないじゃないか、あるごたんなら、まちっとこげんもならにゃ、あげんもならにゃいけんじゃないか」と。「無か証拠じゃないか」と。
その、もうあたくしはそれを聞かせてもらいよって、なんていうんですかね、もう(?10:37~)ごとなりました。そしてね、あたくしもあげん言われたら、どげん説明するじゃろうかと思うたところが、説明の仕様がないです。もう理屈を言う人の上にはね、もうそら、あの歯は立たん。なぜかっていうと宗教のほうは目に見えない世界のことを言うとでしょうが。だから実はこうだああだと、ならあたくしが御霊様が喜ばれてこうじゃったと言うても、みんなが、はあ、ほんとにそうじゃったじゃろうかというて喜べないところは、まだ信じてない証拠ですよ。
けれども、んならね、あたくしも少し残念に思うてね、それがしまえてから、ほんにどげん言うたらよかじゃろう、私ならどげん言うじゃろうかと思うたばってん、言いようがなかった。それからあたくし立ち上がろうとしたら、神様が、あの「おかげがあるじゃないか」と頂いたです。そん時、ね。
例えば教祖の神様がですよ、商売に対して例えば、八銭のもの、十銭のものなら八銭で売れと、二銭の損のようでも、えーたくさん売れるからそれのほうが得だと。例えば教えておられるから、教祖様がそうおっしゃるから安くした。真心からお客さんサービスをした、ね。ところがこういうおかげが、売り上げが多なってきた、なら、こういうことはね、普通の道徳とか修養では伴わないです。
例えていうならば、なら教祖様が「信心は親に孝行するも同じことぞや」とおっしゃるから、もう親孝行の心がなからな信心がでけんのだと。だから親に孝行しなさいよ、ただ孝行するだけじゃいかん、もうしようごとしてたまらんちゅうごたる気持ちになんなさい。ならこれは昔のあたくしどん、小学校の時に学校の先生あたりから、もうね、忠孝道の道を聞かせもろうた。神には忠じゅうせんならん、親には孝行せんならん、校長先生がお話されると、親の孝行の話されるから、親孝行いたしますよ。すと親が喜びますよ。自分もやはり嬉しいですよ。それまでの話です。
ところがね、教祖様が教えられたから、はあ、ほんに自分は親孝行の心が足りなかった思うて、しようごとしてたまらんという心を育てていって、親孝行することになるとですね、親も喜ぶ、自分も喜べる、そしてここにはです、今まで開けなかった道が開けたり、治らん病気が治ったりというような奇跡があるのです。
それをなら、経文なんかに説いてあるです。キリストも説いとるです。お釈迦様も説いておるです。けれども現在のキリスト教やら仏教やらでは、どんなに理路整然と説いたところでです、ね、そんならこういう実証があるではないかと、ね。あたくし2、3日前の御理解に百万言の例えば理論よりも論理よりも、ね、一言の否定しようにも仕様のないほどしの実証、その証を立てるということが本当だという御理解を2、3日前でしたかね、聞いて頂いたんです。
そういう意味で、例えば合楽の場合はその実証ができるです。私は思うた。あん時にもしあたくしにあのテレビに出て、あの討論をさせて頂いたらです、もうあのテレビを見よった日本中の人たちがです、いやあ神様は実在するんだ、魂の世界はあるんだ、そんなら本気で魂を清めにゃいけんな、親も大事にしなければいけんなということがね、分かるだろうとあたしは思いました、ね。
神様が、あたしももうその無神論のその岡本(オカモト)さんが言うておる、もうそれこそ、なん、もうほんとに、えーそのあのんー、人を喰ったようなね、態度で、もうとにかく神仏を無視する人なんかの話なんかというのは、人を喰ったような顔をしますよ。もうあたしはそれがね、残念でね。もうつらみ節ぐらい思って、ほんにそうたい、あげんそして理屈で言うちゃるならどげんして、そしたら、ぼんさんはぼんさんでやっぱり宗教家ですから。それに対して答えることはできなかったです。そして岡本(オカモト)さん、岡本(オカモト)先生、あなたが言われるのもやっぱ、なら、理ですね、というて終わったんです、ね。
テレビ局としては、そういう討論をさせて、その、するところが願いであって、ほんとに神仏のあるないを極めようという願いじゃないです。もうただ面白可笑しゅうね、さあ、ぼんさんが負けた、岡本(オカモト)さんが勝ったの負けたの、そこだけを見せたいわけです。残念なことだと、ね。
そこであたくしの場合、なら合楽の場合にはね、親先生がこうおっしゃったら、こうしたらこうおかげ頂いたという、実証が伴うておるんだと。例えば、只今でもそうでしょう。私、御祭り中にものを言うことしませんけれど、半ばにブン、ゴウゴウ言いだしたでしょうが、お広前中が。はあ何の音じゃろうか、こん冷房入れた音にはちった高すぎるが、こりゃあ今からあたし御神前でああ、霊前に出てから神様とそれこそもう、あの御霊様との私との交流がね、なんの障りがあっても邪魔があってもならんと、あたくしは思うんですよ、ね。
あたしは(?15:23~)宅祭りに行くと、時計のジンが鳴ってでんならんてあたしは確信してるです。その御祭り、その御祈念中にはね。というようにその思うておるところに向かって、ブンブン言いだしたから、あたしがあの冷房ならば切らせようと思ってね。言うたでしょうが、あら何の音かて、冷房入れたんじゃないかて。ところが今大工さんがあすこ、その、増築しよりますもんですから、なんか電気を入れてなんかやってるわけなんです。どうですか、私が御霊前に拍手を打ったと止まったと一緒だったでしょうが、ね。
これなんかは、神様が御霊様がこのようにも生きてござるんだ、実在してござるんだという実証なんです。証なんです。ね、ですからほんとに今の仏教でね、そういう実証を見せられない、ぼん様がいかに長々と経文を上げられたところでね、御霊様に受けよるやら、受けよらんやら、助かりよるやら、助かららんすらが分からんでしょうがと言いたい訳です、ね。
だから、ほんとにこげん馬鹿らしいことはなかです。仏教で例えば、ならもうあたくしはね、あえて言いよるとですよ。教祖様はね、他の神仏を侮ったり、もう悪く言うちゃならんけれど、問題は助からなきゃならない。それをこげんすりゃ助かるじゃろうというような、ぐらいなことでしよって、一つも、ドブん中に金突っ込むような。例えばお葬式をするのに、先日もあたしゃ、あたくしの叔父の告別式に行きましたら50万からかけてあった。その告別式のあの葬式に払うだけの代金だけで。あたし従兄弟に申しました。
そればってんあんた、こん(?16:58~)はみんなあの(?)しちゃるけん、あたしは20万ぐらいでよかろうち思うたばってん、近所の手前があるけんでするちゅうとは、こげなん馬鹿らしい話があるだろうかち私は思いました、ね。あたしちょうど(?17:11)行きましたから、もう花はすでに枯れておる。前ん庭のごたっと作ってある、その花もその時は素晴らしかっただろうけれども、もう枯れてしまって1週間目には。それを50万も出したというから、ほんにあんたに金(?17:26~)よかの、金ん無かったってん近所の手前があるからち、こういうようなこと言ってましたけれども。
ただ手前とか義理でね、御奉仕をするなんて、こげなん馬鹿げた話はないです。ほんとに断りにっかろうけれども、いっちょ、あの本気で改式のおかげを頂いて。一つもうほんとに言いたいです。それけんいよいよ難儀な時が、難儀な事が起こってね、ここでもう例えばなら久富さんたちじゃなかばってん、もうほんとにもう、噛んで含めるように御霊様が言いよるとですよね。けんなら、あんたがそげん(?17:53)思い切ってこうせんのと、あたくしが言うてさせたんじゃいかんとです。
どげん御霊のこういう話を聞いとって、いよいよ何かの時に、はあ、こりゃ先祖様が何かを求めてござる、神様が求めてござるというようなもん、自分が悟って自分がしなければいけんのです。そら御霊様にあたくしが今、(?18:16~)入れたらですね、はよ本気で改式せんの、(?18:19~)御霊様どげんそれを待ってござるか分からん、ね。夫婦が性生活をするけれども、その入らんちいうてから悔やまっしゃったそうです。お夢の中で。
ね、交流しないちゅうことです、ね。気分のあるけれども交流しないということ。そういう例えば、ならあの、切実な願いを持っておるけん、ほんとにあたしはあれだけの信心頂いて惜しかち思うばってんね。ならあたしが言うてさせたんじゃいかんです。自分がその気になり、ほんとに真心をもって、ほんとに自分も助かり、うちの御霊も助かる生き方を身につけていかなければね、いけん。そこに信心のいわばデリケートなところがあるです。
言われてしたんじゃいかんです。あたしも思うた。大和(ヤマト)さんが今度されるというのに、あんただんが夫婦で御祭りをする。思いはとにかくあんたが真心一杯ですることじゃろうが、ほんとにこれにご兄弟たちもみえるならばと、こりゃもうほんとに思いました。けれどもね、あの言いませんでした。ね、けれどもあのこういう働きになってきた、ね。
そしてあのいわゆる大和(ヤマト)さん(?19:25~)と言われたら、そんなら俺たちもお参りしようということで、なら皆さん今日御参拝になっただろうと思いますけれども。そういう働きにならなければ、御霊に通わないです。うん。今日はね、そん御霊様がこのいうならば、20年30年という大事な式年祭を通して、なら、いうならば衣の徳を受けられた。ね、ということは大和(ヤマト)さんも受けられたということになるのじゃないでしょうか、うん。
そういう魂の世界にあるもの、それからあたくしどもの世界にあるものの交流というのは、そういう真の信心によって、しかも思うとりますじゃない、それをこういう形に現わした時に初めて交流というおかげになってくるということです。
これは分かる分からないはね、皆さんどうでもいいですけれども、まああの、こうしてもうほんとに、あの1番はじめは上瀧(コウタキ)さんがあのように、もうあの世の人と、いわば言われた人が助かる。そんためにあたくしはあすこへお話に行った。もうそれこそ普通でいうなら側にでも寄りつかれんごたる病人でした。けれどもあたくしがお話に行っとりましたら、もと南側にお縁があったところにじいっと、ここんお父さんが来られちゃったじゃん。であたしば胡散臭そうにこうやって見てからね、どこん(?20:47)が来て話しよるじゃろうかちいうごたるふうでね、はよ断らんのち言いたいごたる顔で、その聞きよんなさったです、ね。
そして上瀧(コウタキ)さんがおかげを受けて、それから、ここんお父さんがおかげを頂くようになり、それから兄さんがおかげを頂くようになり、その時分にお父さんが言いござったです。「あたくしげんには、ほんにどうでん信心してくれればよかばってんか、なかなかできんばってん、ありゃまだ拝みもせん、お参りもせんばってん、ひでひろ(ヒデヒロ)だけはありゃよか信心なろうごとございますばい、先生」っち、あたくしに言いよりなさったがね、やっぱりお父さんの眼鏡は狂うていなかった、ね。
そういう意味でです、んなら、上瀧(コウタキ)さん、お父さん、大和(ヤマト)さん、秋山(アキヤマ)さん、そういう縁につながってです、ほんとに一つ(?12:30)共に助かる道がここにあるんだから。しかもこれは実証して、ね、神様が見たいち言うなら見せてやる、神の声が聞きたいというなら聞かせてもやろうかというぐらいな働きもあっておる、あたくしは合楽に縁頂いとる縁はね、生かしていかなければ嘘じゃないだろうかというふうに思うんです、ね。
だから、あの聞いといて頂いて、いつか合楽の先生があげなんこと言いよったと、大和(ヤマト)さんなんかはもうあたくしの話はそれこそ日々聞いて下さるけれども、それに繋がる縁の方たちがね、こういうチャンス、機会をまたとない機会を得て、まあ皆さんに今日はお話を聞いて頂いた。これが御霊様のまあ願いであり、お父さんが願っておられることだというふうに聞いて頂くなら、なお有難いことだと思いますね。どうぞ。